正しい弓の引き方とはなにか?流派弓道の技術を取り入れる上での注意点
こんにちは。
<あらすじ>
・流派弓道と私達の関係
・紅葉重ねなどのテクニックだけを真似してはいけない理由
・正しい弓の引き方とはなにか?
<あらすじここまで>
■流派弓道と私達の関係
皆さんは、ご自分の流派について考えたことがあるでしょうか?小笠原流、日置流、尾州竹林派、日置流雪荷派、日置当流、
これには様々な考え方があり、
■全日本弓道連盟のなりたち
元来日本の弓道は流派弓道しかありませんでした。それを一度とり纏め、共通の体配を作り、 同じ舞台で試合や演舞を可能にしたのが戦前に組織された旧武徳会 です。旧武徳会は戦後GHQに解体されたため、 現在存在している全日本武徳会とは別の、 丹羽圭介などによる団体で、 弓術を弓道と改めたのもこの武徳会です。弓道は本来弓術であったものが、スポーツ精神との融合を図られ、 弓道となったのです。戦後、この武徳会の基本構成を元に発足したのが全日本弓道連盟、 日弓連です。日弓連は体配だけでなく弓道の技についても、 弓道教本により編纂されていきました。第一巻の射法編から第四巻に至るまでに数十年をかけており、 そこで技術を紹介している先生は数、年代ともに幅広く、 非常に充実した内容です。ただし、 その内容には一貫性があるようで無いのです。
それは当然といえば当然です。 それぞれが流派の多様性を通して御自身の弓道観について語っておられるのですから。弓道教本で講師となり、 筆を執っておられる先生は様々な流派の先生です。 それもそのはず、流派が集まったものが弓道連盟ですから、 流派に所属していない人などいないのです。そしてこの前提を忘れてしまうと、 弓道教本によって技術を学ぶ人は、 大いに惑わされる事となってしまうのです。
■紅葉重ねなどのテクニックだけを真似してはいけない理由
私達は弓道の技術書を読むときにどうしても全体ではなく、 パーツで何かを学ぼうとします。例えば八節のような、足踏み、 胴造り、引き分け、取りかけ、離れ。弓を引くうえでの一連の動作を流れとするなら、 それぞれの動作を区分して考える。いわば縦割りの概念です。そして、本に紅葉重ねや丁字の足踏み、本多流の中押しなど、 魅力的なテクニックがあった場合、 どうしてもそれを試してみたくなります。しかし、気をつけていただきたいのは、 ご自分の射型にそのテクニックが搭載された場合、 その結果どうなるか?という点です。これを想像しながら練習してみることが必要です。
例えば、 紅葉重ねを大きく伸びる射法を普段指導されている方が試した場合 、大きく伸びながら左の左手のみ捻りを加えるため、 どうしても弓手が先行し、後ろ矢が多く出てしまう事と思います。もしくはキチキチと会の伸び合いで妻手の指が摩擦により鳴る『ヤゴロ』は弓を自然体で扱う射法の方によっては『緩んでいる』と指摘が入ることでしょう。理想とするポイントが異なるだけで、捉え方は大きく異なっていくのです。
武道の流派は、伝承される形質を持っているため、 非常に整理され、シンプルな完成された形であることが殆どです。創始するのはヒラメキに溢れた天才であっても、 伝承するには多くの人びとに、 もっと言えば才能が無くてもだれでも出来るように簡易にならなけ れば、流派というものは廃れ、消え去ってしまいます。
逆に、それほどシンプルで完成された流派から何かを足したり引いたりすることは、 生半可な難易度ではありません。紅葉重ねを真の意味で体験したければ、 日置流印西派の一通りをすべて行い、 全てが必要であると知る必要があります。それが分からなければ、一つの個性的な手の内のバリエーションにしか成り得ないでしょう。
また、流派の面白い所をもう一つご紹介しましょう。 流派にはその技法について伝書があります。 私も何冊か奥義秘伝書について読んだことがありますが、多くの奥義は口伝に寄っています。秘伝書であるにもかかわらず、 『口伝による』としか書いていないのです。読んだ当時は何だこりゃ、と思ったのですが、 奥義というものは非常にニュアンスを重要な成分とすると考えると 合点が行きます。『これはちょっと文章では分かりづらいから、 実際に見せながら説明するね』ということです。 今でも文章でどれだけ説明しても誤解が発生してしまって、 動画で説明すれば一目瞭然、という事がよくあります。流派というものを誤解なくしっかりと伝承するために、 奥義書には口伝によるという記述があって、 そこはしっかりと師匠が弟子に説明する。その積み重ねによって流派というものは今日まで続いてきたのだと 思います。
■正しい弓の引き方とはなにか? 流派弓道の技術を取り入れる上での注意点
弓の理想型は十人十色です。体型も、 筋力もその人によって異なります。弓道を修練する上で、 設定しなければならない理想のゴールが、 その人々にとって設定されなければなりません。その理想に近づくために練習を重ねなければ、 どれだけ練習をしても自分がどこへ向かっているか、 言ってみれば迷子になってしまうからです。まず考えて頂きたいのは、 自分は将来的にどの様な弓を引きたいのか?という点です。全日本弓道連盟が現在提唱しているのは、的中にとらわれず、 大きく精一杯心を込めて誠心誠意、弓をひくことです。そして会の充実を図り、大きく大輪の花が咲くかのように離れ、 大きく見事な残心を執る。これが理想とされています。(もちろん、誠を尽くした弓であれば、的中はついてくる。 囚われすぎてはいけない。とされています)
逆に流派弓道の目的は尾州竹林流の飛・中・ 貫を始めとする実践的なものを旨としています。 弓矢への積極的な体のアプローチ、鋭い矢飛び・的中率・貫通力。これが流派弓道の目指しているものです。では流派弓道と全日本弓道連盟の目的の相違は相容れないのか。これを橋渡しする考えをもった流派があります。
弓聖とかつて呼ばれた阿波研造先生の興した大射道教です。大射道教は阿波研造範士が技術を極めた後に弓道に精神性を求め、 全日本弓道連盟の方針に大きな影響を残しました。仙台で大射道教を興した当時は離れで弓を掴むことすら自然でない とし、道場の床には落ちた弓で傷だらけ。名人と呼ばれた阿波研造はいつしか狂人と呼ばれ、 へんてこりんな宗教の始祖となったずいぶん馬鹿にされたようです 。しかしその崇高な精神性はドイツから日本文化を研究するため弟子となった哲学者オイゲン・ ヘリゲルによって名著『弓と禅』 によって広く世間に認められることとなります。残念ながら大射道教は阿波研造の死後、 神永政吉範士によって受け継がれた後、歴史から姿を消しますが、
この経緯こそが全日本弓道連盟の語られぬ方針の礎となっていると 、私は思います。
本来であれば個人個人の研鑽についても、 この弓道の辿ってきた歴史のように、
『技術・性能の追求→精神性への欲求→理想の弓』
へと変遷があるべきだと私は思うのですが、 なぜかこれらのワードは全て存在しているにも関わらず、 あまり流れに沿って紹介されることはありません。紅葉重ねのような流派弓道の技術が縦割りでパーツとして考えられている様に、技術の追求と精神性への欲求は個別のものとして語られ、あるいはお互いが唾棄すべきものとしていがみ合ってすらいるのが現状です。技術無き精神性も、 精神性無き技術も全ては理想の弓への道程であり、 未だ道半ばという意味では同じである。 という認識をすべきだと思います。
■まとめ
弓道の指導を受けたり、技術書を読んだりする時に得る技術的要素は次の3つに分類できます。
◎教えられる3つの要素
・日本弓道連盟の体配、段位習得としての指導
・流派弓道のテクニックとしての技術指導
・先生個人のテクニックとしての技術指導
これに対し、個人が指導を受けた際に得たいと思う技術的要素は次の通りです。
◎指導を受ける個人が求めるもの
・全日本弓道連盟の段位
・指導者に学ぶ段位、テクニックとしての弓道技術向上
つまり、指導を受けた後にどうなりたいか、どうなるのかが要素により異なってくるのです。
①日本弓道連盟としての段位取得
②流派弓道としての段位取得・技術向上
③指導者の理想とする弓への技術向上・習得
恐らく、指導をされている先生もこれらを分類し、体系的に分けて指導をされている先生はなかなか居ないと思います。(体配などは明確な正誤があるため、わかりやすいですが)私達は指導をする際、受ける際にこれらを出来るだけ明確に区別して、自分がどうなりたいのか、または自分が何を教えているのか?をある程度以上の技術を持った方に伝えながら、お互いの知識を共有していくことが必要だと思います。
常識を疑い、技術を確認しながら積み上げていくことで弓道の技術は向上します。流派弓道は前時代のレガシィでもなければ、無関係の異端技術でもありません。全ては弓道における先達によって切り開かれた道であり、いつかはその延長に我々は新たな道を作っていかなければならないと思います。私もこれから弓道に関する文章を書いていきますが、これによって少しでも弓道を掘り下げるきっかけになればと思っています。
それでは。